

大気の創造神マケマケは海鳥マヌタラ(セグロアジサシ、軍艦鳥)に、オロンゴ岬の絶壁下に横たわる3つの岩島を与え、その住みかと定めました。それ以降マヌタラは春になるとやってきて、荒波に浮かぶ小島を揺りかごに卵を抱くようになったのです。これがイースター島に残るオロンゴの海鳥マヌタラの伝説でした。マヌタラはかつて島人たちの祖先がいた遠い土地ヒヴァの国から飛来し、また帰っていきます。つまりヒヴァから飛んでくる鳥の卵は、命、生命力と力強さの象徴だったのです。また軍艦鳥の別名でもわかるとおり、この鳥は攻撃的で他の鳥の獲物を奪いとったりもします。この攻撃性も勇気の象徴として崇められていたようです。
マケマケの化身はタンガタマヌと呼ばれる、頭は鳥、身体は人という「鳥人」です。海に閉ざされた島の住人にとって、自由に波を越えて飛ぶ鳥こそは神の力を宿すもの。陸地や魚のいる場所を教えてくれる救いの神でもあったのです。神の化身である鳥人は、強いマナ(霊力)の持ち主として崇拝されていました。この「鳥人」になるための苛酷な卵取りレースが「鳥人儀礼」なのです。鳥人儀礼が始まったのは16世紀初頭ではないかとされています。モアイ信仰とは切り離された行事だったようですが、まだこのころは宗教儀式の色が濃く、マケマケの化身の鳥人になることそのものが目的のようでした。
その春最初のマヌタラが渡ってくると、各部族の代表(酋長たち、もしくはポプと呼ばれる代理人)は断崖絶壁を下り降ります。眼下には流れが速く、サメが待ち受ける海。そこから、ひとり乗りの小さな筏だけを頼りに泳いで沖の小島に渡るのです。この海を渡りきる前に、何人もの男たちが命を落としたといいます。島では小さな洞窟の中で昼も夜もなくマヌタラが最初の卵を産み落す瞬間をひたすら待ち続けます。最初の卵を見つけた者は崖の上で待つ人々に向かって「さあ王よ、あなたの頭を刈りなさい」と叫び卵の獲得を宣言し、再び荒波を越えて戻るのです。この武勇によって本人、もしくは代理をたてた主人はその年のタンガタマヌ(鳥人)となり、マケマケから強いマナを授かります。「他者の生命を断つことができる」ほどの強力なマナを得た鳥人は人との交わりを断ち、頭髪、眉毛、まつげを剃り落とし、ボディペイントを施してからタブーの多い禁欲生活に入るのです。妻といえども家には入れず、また本人もめったに外へは出られませんでした。そして勝者である鳥人が率いる部族は敗れた部族を襲撃・略奪して溜飲をさげ、マタヴェリで開かれる宴会では数人の生贄が捧げられたともいわれています。「相手のマナを自分の体内にとりくむ」ための食人もこの儀式の重要な要素であったようです。
この鳥人儀礼は1866年まで続けられ、その年まで86人のタンガタマヌの名簿が残されています。16世紀から続けられていた儀式なのに、なぜ記録は86年分しか残されていないのでしょうか。それは最後の86年間のタンガタマヌが、それ以前とは違う性質の存在に変わったからだと考えられます。18世紀の中頃から人口増加による食物不足などが原因で島では紛争が絶えず、最初の王ホツマツアの子孫でさえ、その政治的な力を失っていきました。王族に代わって、戦士階級が台頭してきたのです。このころから鳥人儀礼は各部族の戦士階級同士の権力争いをより平和的に解決するための手段として利用されるようになりました。鳥人タンガタマヌとなったものは宗教者として崇めれれるだけでなく、1年間島を支配する専制君主と見なされるようになったのです。鳥人儀礼が行われている間は部族間の小競り合いも全て中断。島中が最高権力者の選出を固唾をのんで見守りました。こうして単なる宗教儀式であった鳥人儀礼は一気に政治的コンテストの様相を呈するようになったのです。単なる宗教者ではなく、最高権力者の選出ということで、記録を残す必要も出てきたのだと考えられます。
さて1年に1度島全体を巻き込んで行われた苛酷な儀式が、1866年になって廃止されたのはなぜなのでしょう。この理由については諸説があり、未だ確定的なものはありません。ただ、鳥人たちがあれほど熱くなっていた絶対権力者選びが必要なくなったというのは、概ね正しい見方ではないでしょうか。 1862年にやってきたペルーの奴隷船は王とその王位継承者を連れ去り、この直後は鳥人が王の役割も代行せざるをえませんでした。つまり鳥人はいつにも増して重責を担うことになり、儀礼はより重要なものとなっていたのです。しかし、その3年後の1865年にはペルーから幼王グレゴリオが帰国し、王位の問題は消えます。また1886年ごろまでには鳥人のほとんどがキリスト教に改宗し、宗教的な実権はルーセル神父に握られていました。加えてタヒチから渡ってきたフランス人デュトル・ボルニエが世俗的な意味で島の実力者となっていったので、島人たちはもうかつての鳥人のような絶対無比のカリスマを必要としなくなっていたのでしょう。こうしてラパヌイは次第に独自の精神世界を失い、徐々に西欧文明の枠組みの中に取り入れられていったのです。 |